渡辺曜研究委員会

渡辺曜について考察するブログです。

MENU

曜研エッセイその1:「文書主義と解釈違いについて」

曜研エッセイ第1弾です。

1. 曜研エッセイとは

曜研(ようけん)エッセイとは、渡辺総研の日々の心情やとりとめもない主張を記録するための文章カテゴリーです。

 

2. 解釈違いに殺された話

あれは確か2019年2月17日0時44分くらいの話だったと思うが、戦争の火種は突如として眼前に産み落とされた。

それは新たな解釈によって渡辺総研という存在が規定されなおすというものであった。

私にとってそれはあまりに残酷で、耐え難い屈辱的なことであった。

幸いにして私は日々の記録を怠っていなかったので、2011年当時の記録を漁ってみた。

結論から言えば、上記の解釈を否定できるだけの根拠を、私は持ち合わせていなかった。

なんで魔法科高校の劣等生の話しかしてないんだよ。ラブライブの話をしろよ。と当時の自分に対して思わないこともない。

 

悪魔の証明という言葉があるが、誰もが解釈を否定できるだけの根拠を常に保持しながら生きながらえているわけではない。

渡辺曜というキャラクターについてもそれは同様とみなしていいはずだ。

渡辺曜に対して、「否定根拠がないないならばそれは否定できないはずだ」という精神の元、多岐にわたる新解釈を見出してきたのは渡辺総研その人である。

それは渡辺曜にありえないこともないという解釈をぶつけることで、渡辺曜概念の意味振幅を揺らし、それを再定義しようとする渡辺総研の思考実験の一環であった。

いうなれば、今回の1件は渡辺総研が渡辺曜にしてきた仕打ちが、己が身に返ってきただけである。因果応報、ともいえるかもしれない。

 

人を散々好き勝手解釈しておいて、自分の解釈のされ方にケチをつけるというのはナンセンスである。

受け入れよう。受け入れようぞ、新解釈。その屈辱を除いては。

 

私がこんなとりとめのない文書を残したのも、解釈違いに歯向かうための、文書主義を徹底するためである。

諸行無常には抗えないが、せめて己の足跡くらいについては、私自身の手で規定したいものである。