渡辺曜神学論です。しばらくはこれで勘弁してくださいお願いします。
- はじめに
- 1. 渡辺曜とクィア理論
- 2. 渡辺曜とホモ・ソシオロジクス
- 3. 渡辺曜と極彩色のパノマ
- 4. 渡辺曜と女性状無意識(テクノガイネーシス)
- 5. 渡辺曜と異種混交性(ハイブリディティ)
- 6. 紋切り型のシミュラークルとしてのヨーソローポーズ
- 7. 渡辺曜とプルーラリズム(多元論)
- 8. 末日聖徒渡辺曜
- 9. 渡辺曜と四位基台
- 10. 渡辺曜ディスペンセーション主義
はじめに
今までの渡辺総研レポートはこちら。
1. 渡辺曜とクィア理論
「渡辺曜は女である」という神話は、根拠なき大衆偶像に他ならない。
しかしあえて渡辺曜女性言説と一夫一妻的ジェンダー規範に加担するのであれば、渡辺曜は男性とお付き合いするべきということになる。
渡辺曜は大衆言説に同調すれば美少女であり、こちらの一連の言説体系に従えば渡辺曜は男性との交際経験がある可能性が極めて高い。すなわち「渡辺曜の元カレ」は高確率で観測されうる。
1-1. 渡辺曜に元カレがいるが真の場合
渡辺曜に元カノがいる場合、元カレから見た場合、渡辺曜は元カノにあたる。え、渡辺曜が元カノってうらやましいんだけどはともかくとして、渡辺曜は元カレがいるとしてもあまりに目撃情報などが少なすぎる。
これは憶測だが、渡辺曜が周囲にばれずに彼氏を作れる機会があるとすれば、それは「小型船舶操縦士試験」しかありえない。
渡辺曜はご存知のように定期船の船長を目指しているため、「一級小型船舶免許」「二級小型船舶免許」「特定操縦免許」を取得する必要がある。このとき出会った大学生の男とヨーソローしたわけである。ヨーソローお前が舵をとれ!
1-2. 渡辺曜に元カレがいるが偽の場合
渡辺曜に元カレがいない場合、考えられる可能性は次のとおりである。
- 渡辺曜に交際経験がない(処女・童貞)
- 渡辺曜には男性との交際経験がない(レズ)
- 渡辺曜に元彼氏は存在せず、現在も交際中である(イケイケ女子)
上記の3つの場合分けに従って、それぞれ考える必要がある。
また「男性との交際経験がないこと」と「レズであること」に論理的帰結はないが、ここでは両値は等しいものとする。
このように考えてみると、渡辺曜に元カレがいないからといっても、入力値によって答えは変化するとしかいえない。
渡辺曜のジェンダーロールは常に変数である。
1-3. 元カレがいないならば渡辺曜ではない場合
以上のロジックに従えば、元カレがいないのであればそれは渡辺曜ではない、という結論にはならない。
『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品において、ファンの間ではカップリングと称して各キャラクターの性交体験又はそれに分類しうる行為の描写が薄い紙メディアで挿入されるケースがある。
これらの作品はジェンダーフリーの推進を促しているように見えなくもないが、実態としてはそんなことはない。そこにあるのはオタクフリーによるキャラクターセンチリズムであり、むしろ家父長主義的ジェンダー規範の再生産に結びついている。
ただしパターナリズムという言葉は比較的近代のものであり、また家族形態は産業革命以降によるものであることに留意すべきだろう。
2. 渡辺曜とホモ・ソシオロジクス
「なりたい」と「あるべき」は一致しえない。するとすればそれはホモ・ソシオロジクスである。職業制服を嬉々として身にまとう渡辺曜はまさにホモ・ソシオロジクスの体現である。
というのは嘘だ。ただし結果と役割がスライド的に偶発的に一致することはあり得る。花丸推しの渡辺総研が渡辺曜の記事を書きまくったおかげで渡辺曜研究の役割を果たさざるを得なくなったのと似ていないね。
記号化された世界において、社会が要請した役割は個性とせめぎあう。社会とは人間関係の構造化であり、予言の他者実現が自己に内実化する可能性もある。
渡辺総研がいうところの「アイデンティティクライシスの常態化」とはこのような前提をもとにしている。
3. 渡辺曜と極彩色のパノマ
色は象徴であり、もっとも恣意的なシニフィエである。
TVアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』では「見えない力」という用語が登場するが、見えないという色は人間が視覚的に認知できないという以上に様々な意味が付与されうる。
色への名前や意味付けが各国の言語や文化によって左右されるように、その意味付けの恣意性をつきつめていけば、感覚所与の問題へとつながる。すなわち「意識のハード・プロブレム」もしくは「クオリア」への議論である。
「渡辺曜であるとはどのようなことか」、間主観性の問題など、渡辺曜論では哲学的・現象学的分析も欠かすことができない。
4. 渡辺曜と女性状無意識(テクノガイネーシス)
他者は異邦人として描かれることが多いが、周縁に外縁化され後景化された他者はもっとも身近かつ理解からかけ離れた存在である。その意味では異性はもっとも身近な他者である*1。
生物学的身体によって分類された性は、その実は社会の要請に形作られた恣意的規範であることがわかる。つまり性が人を分けるのではなく、性という言葉と社会が人間を分類する。
渡辺曜のアニマ・アニムスの併存は、渡辺曜個人に源泉するものではなく、社会によって要請される。しかし渡辺曜には視聴者という第3者が介在することで広義の二者相関のコンテクストが発生する。
渡辺曜は内弁慶といったオタクの戯言が紐帯化した事象を鑑みても、オタク的言説の投影は渡辺曜の基本的原理であり、また言説付帯化という意味における志向の同調可能性の高さが指摘できる。
つまり渡辺曜の女の子らしさとは、社会に迫害されたラブライバーの投影である可能性がある。
5. 渡辺曜と異種混交性(ハイブリディティ)
ラブライバーには周知の事実だが、TVアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』はフェミニジアの世界である。
製作陣がどのような意図で女性だけしか存在しないようにみえる世界を描いたのかは不明だが、このことは現代のフェミニズム・ジェンダー理論を再考することに寄与する。
渡辺曜は一般的に美少女であるとの言説があるが、短髪、キャップ・パンツスタイルを愛用、ハンバーグがお好きなど、いわゆる保守的ジェンダー規範と照らし合わせると、男性的な特徴が付与されている。これに即せば、「渡辺曜は女である」という言説も慎重に検討を重ねる必要がある。『ラブライブ!サンシャイン!!』公式やキャストなどからは、渡辺曜について「少女」「女の子」という表現が用いられているが、こちらの表現がどのような定義に基づいているのかは不明である。生物学的身体特徴を指しているのか、はたまたジェンダー的な意味なのか、不明瞭である。
またファンの間では「渡辺曜は童貞である」といった、渡辺曜が女であるとするならば非常に不可解な表現が散見される。またSSでは渡辺曜には"そこにあるはずなのないものが生えている"、つまりペニスが備わっていることもしばしばある。
火のない所に煙は立たぬというが、ちんこのないところにちんこが生えるだろうか?いや生えない。
したがって渡辺曜は女ではないとは断定できないが、渡辺曜が女でないとするならば、一連の事象に一定の説得力を付与することはできる。すなわち渡辺曜はふたなり美少女である。
ふたなり美少女であればレズであり童貞であり、ちんぽが生えていることにも一貫した説得力をもたせられる。またこのような両性具有は時に神性や超越的存在のシンボリックとして作用することもあり、渡辺曜が両性具有であれば渡辺曜の神性問題を力強く後押しする。
フェミニジア的世界観が強調されるサンシャイン現象界において、渡辺曜の異様さは他のものとは一線を画している。
またこれは個人的見解だが、渡辺曜概念を考えるうえで「母親」という言葉は非常に重要なウェイトを占める可能性がある。これはアニメに登場した渡辺曜の母親らしき人物でもなく、ひろこでもなく、渡辺曜へのバブみそのものでもない。
つまり1950年代以降における日本社会における母親と呼ばれるジェンダーロールそのものである。
やーいやーい、お前の母ちゃん渡辺曜〜!
6. 紋切り型のシミュラークルとしてのヨーソローポーズ
ヨーソローはご存知の通り渡辺曜の決めポーズである。これは定期船の船長を志す渡辺曜というキャラのバックグラウンドを象徴する設定だが、一方で渡辺曜というキャラを記号化し、ひいては個性を単純化するという機能もはたしている。すなわち個性であったはずのヨーソローが没個性へと繋がっているということだ。
ヨーソローという言葉は、「渡辺曜が彼ピッピとヨーソローする」といったようなバズワードとして機能するが、ヨーソローポーズとはまた別物である。
また「よう早漏」などイケイケ女子言説の補強、「曜ソロ」などに派生語などを考慮すると、必ずしも偽物とは言えず、ヨーソロー群としてのオリジナル性が認められる。
ヨーソローそのものよりも一連の型として見た方が、分析としては適切であるかもしれない。
7. 渡辺曜とプルーラリズム(多元論)
渡辺曜のハイブリッド性はプルーラリズムを想起させるが、過度な相対主義をいかにしてオリジナルの議論に転化するかは難しいところである。
属性過多はラスボスの特権という見方もできるが、渡辺曜の場合はむしろ渡辺曜単体に多彩な属性が含まれるのではなく、渡辺曜というフレームに有機的なファクターを見出すコーポラティズム的な捉え方をするべきかもしれない。
8. 末日聖徒渡辺曜
以前に「渡辺曜=イエス・キリスト説」について考察したことがある。
しかしこちらは少々根拠が弱い箇所が見受けられるため、渡辺総研によるこじつけの産物といわれても仕方のないものであると自覚している。
したがって、明確な根拠がなければ「渡辺曜をイエス・キリスト又はキリスト教関係者」と断定することは難しいだろう。その意味では渡辺総研も大いに反省したい。
渡辺曜はむしろモルモン教関係者であると思う。
本当は「渡辺曜とモルモン教を結びつける根拠」について子細に解説したいのだが、この文章は沼津の地で書かれており、そのため手元にモルモン書がない。
モルモン書があればニーファイ第二書・ジェロム書・アルマ書などなどの記述と見比べることができるのだが、残念ながらそれは叶わない。
そのためここではやむを得ず割愛するが、現時点において渡辺曜とモルモン教の関係は濃厚であると渡辺総研は考えている。
9. 渡辺曜と四位基台
渡辺総研は二性性相の相対的関係については懐疑的であるため、統一原理によるところの四位基台なども否定的ではある。しかしエホバの証人が三位一体に否定的であるように、カトリック・プロテスタントなどから異端認定されたこれらキリスト教についても、渡辺曜神学の参考としたい。
- 「知らんがためにわれ信ず(cred ut intelligam)」
- 「信ぜんがために知解する(intelligo ut credam)」
- 「不合理ゆえにわれ信ず(credo quia absurdum)」
こちらは元々パラドックスを知るうえで用いた言葉だが、渡辺曜という生けるパラドックスを考えていくうえでは基本的な考え方となる。
渡辺曜という不合理は正さなければならない。
10. 渡辺曜ディスペンセーション主義
ポスト渡辺曜イズムによる理論包括には限界があった。したがって今後は救済史にのっとって渡辺曜の一連のクロニクルを定めるものとする。こちらは渡辺曜神学論的分類に位置するため、社会学的・構造主義的分類である「ポストモダン渡辺曜主義」は含まないものとする。
また詳細な分類についてはもっか検討中であるが、現時点では患難後携挙説を採用予定である。
*1:この異性という表現がLGBT的性的マイノリティをさらに周縁化するという前提も併せて念頭に置くべきだろう