渡辺曜研究委員会

渡辺曜について考察するブログです。

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渡辺総研レポート①:渡辺曜というアンビバレントな存在【抄録編】

渡辺曜について様々な論点から好き放題考察する記事です。実証を放棄しているので、色々と端折っております。筆者の備忘録曜です。

 

1.アンビバレントとしての渡辺曜

 なぜ渡辺曜はここまでの人気を集めるのか。それは渡辺曜が持つ「解釈余地性」のためである。

 

 渡辺曜にまつわる描写はそのほとんどが重層的な意味解釈を可能とする。 ときに正反対の結論を導くそれは、さながら「アンビバレント」を体現した存在である。渡辺曜そのものがアンビバレントを内包するのか、はたまた渡辺曜という表象が、そこに自己を投影する視聴者に対しての、両義性を可能とするのか、それは現時点ではわからない。

 

 しかし、渡辺曜の多様な意味解釈の”ブレ”の幅広さには目を見張るものがあり、筆者はこれを「渡辺曜の意味振幅」と呼ぶ。意味振幅は常に固定されず、はたから見れば危機的なものではある。しかし、この危機的な意味振幅の変動、すなわち「一種のアイデンティティクライシスの常態化」こそ、渡辺曜の特性と位置付けるべきかもしれない。

 

2.〈神〉としての渡辺曜

 まず渡辺曜は〈神〉である。ここでの「神」という言葉は、「あまねく人々によって維持される〈共同幻想〉」として定義される(=渡辺曜偏在説)。

 

 わかりやすくいえば、渡辺曜というものは「一種の概念」であり、それそれものが単体では存在せず、人々の意識の中で共有される共通項的存在であるということだ。言い換えれば、「渡辺曜はそこにあるのではなく、我々の中にある〈渡辺曜性〉が、渡辺曜という噴出点から表出する」という一連の仮説である。

 

 この渡辺曜システム論はコミュニケーション学の観点から考察するとともに、むしろ渡辺曜とは我々の関係性に置換された一連の表象記号として読み解くのが適切と思われる。

 

 またそれとは別に「渡辺曜は神」という言説はTwitter上にしばしば出現する。これは「神」という用語がオタク的・ネットスラング的に「最上級」の形容として用いられている点は理解しておかねばならない。しかし渡辺曜研究において留意しなければならないのは、この「渡辺曜=神」言説が、「渡辺曜の〈完全性〉」に言及したものであるという点である。

 

 そこに働くのは「神としては完全だが、人間としては不完全」という渡辺曜の完全なる不完全性に対する言説である。すなわち、渡辺曜にまつわる言説はすべてが「渡辺曜への人間性の奪還の試み」であり、渡辺曜という概念(=神性)を現代に下す(=堕天)という試みである。この図式を含め、渡辺曜概念あるいは渡辺曜の神話構造と位置づけた議論、これは第3章・第7章にて後述する。

 

3.混沌(アノミー)としての渡辺曜

  渡辺曜に抱く得体のしれない感覚とは、混沌に抱く根源的な恐怖に似ている。これは製作による渡辺曜の描写の制限などがその要因として考えられるが(=渡辺曜の内面描写の欠如など)、このアノミーとしての渡辺曜は現代の商業主義的なアニメ製作の現状に一石を投じるものである。

 

 深夜アニメーションなどをはじめ、多種多様なコンテンツが乱立し、情報が氾濫する現代社会において、「わかりやすさ」とはコンテンツの情報理解を促すものであり、手に取ってもらうための第一条件でもある。わかりやすさを求める要因は大量消費社会にある。アニメやあらゆるものは代替可能な商品としてひたすらに消費されていく。一年前、はたまた1クール前の作品を覚えていられないほどに商品の供給過多と消費行動に追われる日々は続く。

 

 その中で「わかりやすさ」とは一種の「テンプレート」として機能し、視聴者に作品の理解をいち早く提供することができる。同時に、それは類似作品に埋没する、代替可能な間に合わせな位置づけに終わる可能性も示唆する。 

 

 渡辺曜の「わからなさ」とは、その意味において一種のアンチテーゼとして機能する。『ラブライブ!サンシャイン!!』という「美少女アニメ」「アイドルもの」「地域振興」という明確でわかりやすい要素を展開する一方で、「渡辺曜」という理解のしがたい存在は、多用な考察を生み、作品が代替可能な一商品であることを阻止することに貢献している。

 

4.船乗りカレーから読み解くコスモポリタニズムの蓋然性

 第10話「シャイ煮はじめました」にて渡辺曜が作り出した「船乗りカレー」。あれは様々な民族(=具材)が一つの星のもとで調和し繁栄を遂げる、すなわち「コスモポリタニズム」の象徴である。全体を包み込むルーは海のメタファーであり、ご飯は大陸、具材はそれぞれ民族を意味する。すなわちあのカレーの正体は、我々が住まう地球そのものなのだ。その際問題となるのは、カレー(=世界主義)を作り上げた渡辺曜が何者なのかという問いだ。

 

 渡辺曜を神とみなした場合、これは「渡辺曜の見えざる手」によって作り上げられた世界といえる(=渡辺曜創造主説)。しかし渡辺曜が神ではなく、一種のシステムそのものとみなした場合、コスモポリタニズムはアナーキズムへと姿を変える。しかし後者の無政府主義は、世界政府を志向するコスモポリタニズムとは対立するものであり、その点は解釈の違いで真逆の結論が出る点に注意を要する。

 

5.渡辺曜のフォーム・〈身体〉への規律訓練

 渡辺曜のフォームについては本編でも度々言及がある。特にスクフェスの渡辺曜ボイス「突然さわったらフォームが崩れちゃうよ~」という発言、これは「フォームの維持のために神経質になっている描写」であり、渡辺曜のフォームへの執着心の象徴でもある。

 

 ミシェル・フーコーの議論に即せば、これは〈身体〉への規律訓練そのものである。渡辺曜は高飛び込みというスポーツに自身の身体を最適化させるために、あらゆる練習という名の規律訓練を行う。しかし、ここで重要となるのは、渡辺曜個人の規律訓練ではなく、〈他者化〉された渡辺曜が自身の身体に他者の〈まなざし〉を内在化しているという点である。

 

 これは作品内では「高海千歌の〈まなざし〉」でもあり、外部では「視聴者の〈まなざし〉」でもある。自己・他者の視線が明確に区別化されずに内在化されるということは、「パノプティコン的〈まなざし〉」を内在化することに等しい。渡辺曜は見えないコルセットならぬ、「見えない競泳水着」を常に身にまとっている。それはときに「性の対象」として消費される主体性がはく奪された渡辺曜そのものであり、渡辺曜のジェンダー論の再考可能性を示唆している。

 

 しかしここで一番の問題として取り上げたいのは、渡辺曜個人に帰結している規律訓練ではなく、渡辺曜を取り巻く『ラブライブ!サンシャイン!!』というコンテンツ、あるいはそれらを繋ぐ現実社会そのものが規律訓練を行う〈場〉として機能していることであり、それすなわち〈統治〉としての働きを持つことである。

 

6.渡辺曜という深淵:我々が渡辺曜を見つめるとき、渡辺曜もまた我々を見つめ返している

  渡辺曜が理解し難い存在、すなわち混沌(アノミー)的側面として描かれていることは第3章にて言及した。しかしここで主題となるのは我々の渡辺曜へ向ける〈まなざし〉と、その相互関係に展開されるコンテクストである(=二者相関のコンテクスト)。

 

 渡辺曜がかぶる「YOU帽子」がある。それが指し示すものは渡辺曜自身と視聴者の双方であり、その二面性をうかがわせる解釈余地性は明らか二者相関のコンテクストを示すものである。つまり「我々もまた渡辺曜の一部であり、渡辺曜もまたこちらに視線を向けている」ということだ(=渡辺曜カメラ説)。

 

 渡辺曜の並外れた女子力あふれる身体所作、これは第5章の規律訓練を思わせるがそれだけでは説明がつかない。そう、渡辺曜は我々視聴者の視線を認識し、それを〈内在化〉させているとすれば見事に説明がつく。

 

 今のはキャラとしての渡辺曜への仮説だが、概念としての渡辺曜は深淵あるいは「蜃気楼」のような存在といえるかもしれない。渡辺曜はそこにあるのではなく、渡辺曜という「作為的な”空白”」に視聴者が自己を投影するという一連のシステムとみなせるのだ。いずれにしても本章はほかの章とも密接に関わる他、重複している箇所があることは見ての通りである。

 

7.〈渡辺曜〉という神話構造

 渡辺曜が神であるかどうかは別として、渡辺曜概念は視聴者によって語られるという性質を色濃く持つ。奇跡は観測されなければ奇跡足り得ないように、神話もまた語り継がれなければ神話足り得ない。

 

 その意味で渡辺曜概念は一種の神話的構造を持つ。これは当ブログが繰り返し主張してきたように、「完璧超人」な渡辺曜(=神性)に人間性を与えるための構図であり、渡辺曜を人間という依代に引き戻すための行為である。これは第7話「TOKYO」にて渡辺曜が巫女服を着ていた描写からも読み取れる(巫女は神憑りを行う依代でもある)。

 

8.リキッド・モダニティから読み解く渡辺曜人気再考論

  渡辺曜の人気を紐解くにはポスト・コロニアルにまで遡る必要がある。しかしここでは時間がないので「リキッド・モダニティ」という概念のみからの言及に留める。

 

 すなわち「人・情報といった様々なものがグローバル化した現代社会において、人々のアイデンティティーは流動化し、絶えず不安定さに襲われる衝動」であり、「液状不安」を抱きながらポスト・モダニティに立ち尽くすのが現代人の実情である。

 

 渡辺曜のアイデンティティーは「意味振幅」が常に変動し、変動している状態こそが常態化していると第1章で述べた。すなわち渡辺曜と現代人の抱えるアイデンティティー・クライシスは非常に近似しており、だからこそ渡辺曜への感情移入が可能となるのではないだろうか。

 

 液状不安の埋め合わせのいち手段として、ナショナリズムが用いられることがある。渡辺曜の「幼少期の高海千歌への憧れ」を抱く姿に、さながら過去の栄光を郷愁し、ポストコロニアルメランコリアの亡霊にとりつかれたかつての大英帝国を思い浮かべるのは筆者だけではあるまい。

 

 もちろんそんなことはない。さらに渡辺曜の場合は、高海千歌という他者に対する輝かしき郷愁・憧れであり、厳密には両者は性質が異なる。渡辺曜が〈特別〉に対して取り立てて執着を持たないのは、高海千歌に見てもらえた/褒められたというその一点において価値を見出していたからかもしれない(=ようちか言説) 

 

  いずれにしても渡辺曜は過去の高海千歌の亡霊ではなく、今現在のスクールアイドルを志す高海千歌と向き合わなければならない。これは第11話「友情ヨーソロー」によって行われると推察されるが、これによって今までの渡辺曜概念が崩壊し、ポスト渡辺曜イズムが到来する可能性を示唆している。

 

9.「国体論」としての渡辺曜

 

 Twitterでは「渡辺曜は水泳の国体に出ないのか?」という意見が散見される。これは素直に解釈すれば「国民体育大会・飛込競技大会」のことを表しているように思える。しかし実のところ上記のコンテクストで読み解くと「政治システムとしての渡辺曜」と読むこともできる。すなわち「国体論」としての渡辺曜である。

 

 すなわち『ラブライブ!サンシャイン!!』という政治システムにおいて、渡辺曜はその中央に重要キャラクターとして位置づけられている。またTwitter上には「曜ちゃんヤクザ」と自称する謎の集団が存在する。

 

 筆者も研究が進んでいないため推測にはなるが、おそらく「渡辺曜を強く信奉する思想家たちが、共通して名乗るキャラクター派閥のひとつ」であると思われる。現状はイラストを投稿する以外に目立った活動は見受けられないが、仮にキャラクターを巡って勢力間での抗争が起こった際には、曜ちゃんヤクザは渡辺曜の名誉を守るために闘争に明け暮れるのではないかと危惧している。

 

 第10話の渡辺曜の扱いをめぐって、某掲示板などでも「渡辺曜をネガティブに捉えるスレ」が乱立した。今後『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品内において、荒らしとそれに好戦的に応じる国粋主義者の激闘が起きやしないかと考えてしまう不安は、筆者の杞憂に終わってほしいものである。

 

10.『ラブライブ!サンシャイン!!』という祝祭空間

 第10話「シャイ煮はじめました」では渡辺曜が梨子ちゃんを見て何かに気づく描写(お玉と映っていることから、筆者はこれを「空鍋曜」と呼ぶ)があるが、このカットは必ずしも渡辺曜の嫉妬心を示すものとはいえない。にもかかわらず、Twitter上ではほとんどの意見が「これは嫉妬心」あるいは「それに近い渡辺曜の負の側面」であるとみなしていた。これは興味深い現象である。

 

 共通見解としてあるひとつの幻想を共有するさまは、さながら「祭り」という概念に近い。『ラブライブ!サンシャイン!!』について議論を交わすさまは、結論を出すという目的ではなく、その対話行為そのものが目的化している。

 

 その意味において、ラブライブ!サンシャイン!!』は一種の祝祭空間を形成していると思われる。問題はなにを「ケ」と「ハレ」に分類するかという点だが、少なくとも それらを繋ぐ窓となっているのは「渡辺曜」であると考えられる(=境界を超越する渡辺曜)。

 

 ラブライブ!サンシャイン!!』とは、ひとつの夢(=幻想)を共有するための祝祭空間である。渡辺曜はその意味でひとつの神輿であり、神輿は祭りが終わるまで担がれることになる。

 

11.『恋になりたいAQUARIUM』の歌詞分析

 上記のような考察をしてみると、恋アクでの歌詞の謎についても新たな解釈が生まれます(今までの考察は色々とぶっ飛んでるので、ここは少しまじめにやります)。

なんで水のなかでも息ができるの?
たぶんさっき飲んだ熱いお茶のせいかな

〈『恋になりたいAQUARIUM』の歌詞より抜粋〉

 「水」とはここでは海のことであり、すなわち「地球」あるいは「世界」を指します。「息(breath)」とは、ここでは呼吸でなく、呼吸を伴う発話行為のことであり、意訳すれば「対話」を示しています。

 

 2行目の「お茶」を含む歌詞はPVでは花丸の歌唱パートですが、ここではお寺の娘である花丸が歌うことに重要な意味があります。花丸はお寺(=仏教)の娘でありながら聖歌隊(=キリスト教)に所属するという、二つの異なる価値観(=宗教)にまたがる存在であり、文化的バイリンガル(=マルチカルチュラリズムの体現)としてのキャラクター背景を持ちます。

 

 これらの事情を加味して歌詞を意訳していくと、

世界に住まう様々な人種・価値観を持つ人々と対話し、相互理解を進めるためには

様々な異なる文化を自己に内在化する必要がある

 というメッセージになり、これは上記の「コスモポリタニズム」を象徴するものであることがわかります。しかしここには「お茶」という単語の示す意味が抜けています。

 

 そこで「お茶」についても詳しく見ていきましょう。 

 

 お茶の起源は、760年ごろに陸羽(りくう)が記した世界最古の茶の科学書『茶経』に「茶者、南方之嘉木也(茶は南方の嘉木なり)」と記述されていることから、「中国南部の雲南省からインドのアッサム地方にかかる山地」で生まれたとする説が一般的です。

 

 その後16世紀の大航海時代に中国から西洋に伝わるのを皮切りに、20世紀には世界中にお茶が普及するようになりました。つまり「お茶」とは海を渡り世界の全域に広まったという歴史的経緯があるのです。

 

 さらにお茶の分類には製造方法の違いをもとに緑茶(不発酵茶)、紅茶(発酵茶)、ウーロン茶(半発酵茶)の三つに大別されるほか、産地・製造時期・季節・品種別でさらに分類していくと、そこには無数の種類が生まれます。

 

 これはアフリカから生まれ世界中に伝播した人類と似たような系譜であります。すなわち「お茶」とは我々人類そのものを示す単語であり、さらに言えば「無数の人種・文化を持つ人間の多文化主義を包括した概念」と読み取ることができます。

 

 そうした多文化主義的概念(=お茶)を取り込むことで、エスノセントリズムを反省し、文化相対主義的態度を獲得することの重要性と、それによるコスモポリタニズムの実現を、恋アクの歌詞は物語っているのではないでしょうか。

 

 ちなみに”冷たい”でも”ぬるい”でもなく、「熱い」お茶であることの意味ですが、お茶の製造過程を人類の時間軸と重ね合わせ比較してみると、

「熱いお茶⇒”冷たいお茶”

      ”ぬるいお茶”」

「近代  ⇒”現代”」

 

  となるので、熱いお茶を飲むということは、「近代を知る」ということであり、「現代社会を理解するため、現代そのものではなく、現代にいたる近代から遡って理解する必要がある」というような「歴史再考」を促すという解釈が自然です。

 

  と、真面目にぶっ飛んだ考察をしてしまったので、恋アクの歌詞解釈を期待した皆様には申し訳ないと思います。個人的に筆者が気に入っている考察をしている方がいらっしゃいましたので、興味があればそちらを参照してください。ひだまりP様の「Aqours 2ndシングル「恋になりたいAQUARIUM」-30分で4万円の竜宮城」という記事になります。

hidamarie.hateblo.jp

 

 ここからは余談ですが、第5話「ヨハネ堕天」にて花丸が「弘法大師空海」に言及する描写があります。なぜここで空海が出てくるのか今まで疑問でしたが、調べてみたところ空海は806年に唐(中国)から茶の種、石臼を持ち帰り、比叡山に植えることで、日本に茶をもたらした著名人の一人でもあるのです(『弘法大師年譜』)。

 

 当時の「お茶」は僧侶や貴族の間で薬用や儀式に用いられましたが、一般庶民には普及しませんでした。さらに遣唐使の廃止により、次第に衰退していくことになるのですが、花丸の空海発言と恋アクとが、意外な形で繋がりました。

 

12.あとがき

 

 本記事は良く言えば「考察の詰め合わせ」、悪く言えば「考察の在庫処分」のための記事になります。

 

 ご覧になればわかるように、非常にぶっ飛んだ考察が多く、真面目に検証しようとすると肉体的にも精神的にもまいってしまうものばかりです。よって、『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメ放送が終わってしまう前に、ひとまず世に出しておこうと思い、このような形となりました。

 

 よって上記の考察は以降改めて分析するということはないと思います。書いたら満足しました。映画の予告編の面白さと本編の面白さが一致しないように、抄録編のままで終わらせたほうがいいともいますね、これは。

 

 無論、これら以外にもお手軽な考察ネタはまだ残しておりますので、それは当ブログの「渡辺曜を再考する」シリーズで触れたいと思います。

 

 いずれにしても『ラブライブ!サンシャイン!!』も次回で第11話、渡辺曜研究においても大きな節目となる回であることは間違いないでしょう。

 

 当ブログの記事そのものはなんの意味もない代物なのですが、筆者にここまでの記事を書かせるだけの熱量を与えているのが「渡辺曜」という存在に他なりません。

 

 当ブログの存在が、「渡辺曜」というキャラクターに興味を持ってもらうきっかけとなれば、この意味もないと思えるブログにも、一定の価値が芽生えることとなるでしょう。

 

 ひとまず、ここまで読んでいただいたあなたに、感謝を。

 

                     渡辺総研

 

P.S. 恋アク以前の考察は筆者の自己満足のための産物です。

 

【参考文献とか関連リンクみたいな】

www.japanese-greentea.net

www.ocha.tv

・「ミシェル・フーコーの統治性概念 その射程と展開」〈http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/698/1/2-218.pdf

・『リキッド・モダニティ 液状化する社会』 〈http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/PDF/liquid01.pdf〉 

液状不安 (ソシオロジー選書)

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