渡辺曜研究委員会

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渡辺総研レポート②:「渡辺曜挙国一致内閣の趨勢と渡辺曜敗戦論」

渡辺総研の備忘録用レポートです。

1. 渡辺総研レポートとは

端的に言うとこれの続きです。

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2. 渡辺曜挙国一致内閣の趨勢

先日行われた総選挙において、国民的主要な関心が注がれたのは改憲勢力の台頭そのものではなく、むしろ積極的無関心のもとに進められた保守的な国家戦略の運営覇権であった。国家の危機の名のもとに権力集約が行われた例は過去の歴史が幾度となく証明しているが、ひとたび大きな災厄に直面したとき、マクドナルド内閣のような勢力を異なる者たちが手を取り合う事態は往々にしてあるものである。すなわち渡辺曜挙国一致内閣である。

渡辺曜挙国一致内閣とは直面する強大な危機に対応するために臨時的・政治的・合弁的に設けられた救国大連立である。問題はその危機とは誰が何をもたらすのかということだが、本記事ではそこまで言及する余裕はないので割愛する。問われるべきは土台にある渡辺曜挙国一致内閣とその歴史観であり、内側の話である。

3. 渡辺曜とポストアポカリプス的オタクマイノリティーの終焉

近年のオタクアニメ、とりわけ「日常アニメ」と呼ばれるものはある種の転換点を迎えている。すなわちオタクアニメは他者の表象を表象し続けるものではなく、その自己言及性によって己を再生産し続けるというジレンマに陥っているといえる。「エロマンガ先生」や「異世界はスマートフォンとともに」、あるいはそうした題材の再解釈を要請した「ケツデカピングー」「異世界オルガ」は最たるものだ。

これらの良し悪しを評価するのは後年の歴史家たちにまかせるとして、オタクアニメがある種の転換点に突入したことは疑いようのない事実だ。これには社会におけるオタク的自由民権運動の活性化とアニメ産業の国家的立ち位置の表面的見直しが背景としてある。これらの事象が生まれたことで、かつての「好きなものをとことん追求する貪欲で博愛されるべきだった棄民」は姿を消し、アニメ好きを嬉々としてガタリズするオタクマジョリティが台頭した。このことにより従来の「オタクによる〈オタク〉」という字義が地滑り的現象を起こしており、いうなればポストアポカリプス的オタクマイノリティーの終焉といわざるを得ない。

4. 渡辺曜と男根のメタファー

男根のメタファーとはとあるTwitterユーザーがアニメ『響けユーフォニアム』を指して広まった言葉だが、そもそもの系譜はフロイトにまで遡るという非常に奇怪な概念である。渡辺曜にこれを当てはめるとどうなるのか。

渡辺曜、というよりも二次創作における渡辺曜と述べた方が正確かもしれないが、一般的に渡辺曜は生えているといわれている。それは物理的に男根があるということではなく、男根がないという状態が横たわっているということである。アニメ2期の花丸の言葉を借りるのであれば、「渡辺曜は男根が生えていないという状態がある」ということだ。

しかし二次創作における渡辺曜はまぎれもなく生えている。このことはある種の矛盾と指摘できるのだろうか。そうではない。渡辺曜は確かに生えている。それはそこにあるのではなく、心の中にあるのである。すなわち渡辺曜を志向する者の心の中に男根は眠っている。

アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』では〈男性〉性が一切排除されていると話題になったこともある。これらを合理的に解釈すると、たとえば内分泌攪乱物質といった外的要因によって生息環境に雌性の生き物しか生まれない、ないしは後天的にメスしか存在しえないということはできる。しかし『ラブライブ!サンシャイン!!』においてメスやレズしかないというのは至極些細な問題である。問題は渡辺曜である。つまり〈男性〉性が一切排除されたある種の無菌室的環境で生まれた渡辺曜が、その二次創作という別次元の媒体に移ったとたんに男根が生えているものとして再解釈されるということだ。これが渡辺曜を解釈するうえで最大の問題となる箇所なのである。

5. 渡辺曜と荻生徂徠

江戸時代の儒学者「荻生徂徠」は古文辞学の祖としても知られている。古文辞学は中国の古語を対象としたものであり、当時主流であった朱子学を批判するものとして語られることがある。この蘐園学派が行うものはいわば中国古語への翻訳アプローチであり、翻訳とは言語の相互変換性ではなく〈他者〉に漸近する試みである。

〈他者〉とは自分ではない誰かであり、同一ではない存在である。つまり〈他者〉とは本義的には対等な関係であり、対等であるからこそそこには交渉が成り立つ。翻訳や交渉とは、相手を〈他者〉と認識しなければ成立しえない行為なのだ。

6. 洞窟の比喩、イデアとしての渡辺曜 

哲学者プラトンがいうところの「洞窟の比喩」は我々が見ているものそれ自体が実体そのものではなく、 その影に過ぎないということを示している。渡辺曜概念を知るうえでこれは重要な認識アプローチとなる。すなわち渡辺曜という実体は存在せず、我々が渡辺曜と解釈するものはその影のみである(上記の議論に即するならばイデア界という別位相に渡辺曜の〈実体〉は存在することになる→神としての渡辺曜)。

当ブログではかねてより渡辺曜は〈二者相関のコンテクスト〉であるとの主張を掲げてきた。その源泉(渡辺曜という分節ないしは結節点のこと)とは元をたどれば〈他者〉に由来し、ひいては自身に回帰するものだ。渡辺曜を〈渡辺曜〉とみなしたとき、それが「シニフィアンの戯れ」に過ぎないといった方がわかりやすいかもしれない。

7. 渡辺曜という水鏡、高海千歌の〈まなざし〉

渡辺曜の水鏡的性質はアニメ外だけではなく、アニメ内の本編でも発揮されている。渡辺曜は明らかに高海千歌の〈まなざし〉を内在化した存在といわざるを得ない。まなざしとは、当たり前だがまなざされる者がいるということだ。高海千歌は自身を”普通星の普通星人”と定義しているが、これを〈普通〉という本来誰にでも当てはまらない平均的虚像と捉えればかなり特異な概念であるともいえる。しかしここはあくまで本人の認識論の問題であり、高海千歌は"普通星の普通星人"として自らをまなざしているのである。問題はなぜそのような認識に至ったかという過程である。

アニメの描写を参照すると、幼少期の高海千歌は非常に果敢な性格であることが示唆されている。酒井監督の言葉を借りれば”純粋な欲”を体現した存在であるといえる。対して幼少期の渡辺曜は現在ほどの完璧超人性を感じられない。それもそのはずで、渡辺曜は高海千歌の幼少期からの〈まなざし〉を内在化した存在なのであり、誤解を恐れずに言えば渡辺曜は高海千歌になりたかったのだ。両者の構図は非常に稀有な関係性であり、〈普通〉を自認する〈特別性〉と〈特別〉を偽装する〈普通性〉、対照的な関係性は見るものを否応なしに惹きつける。ようちかとは〈まなざし〉の交錯と交換であり、自認性の物語である。

アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』第11話「友情ヨーソロー」が提示したのは「女の子同士の心の機微」「嫉妬」といった単純な問題ではない。渡辺曜が剥奪した〈高海千歌のまなざし〉が本来の持ち主のもとに返還されるのか、その結果人性と神性のどちらに天秤が傾くのかというある種の神話構造である。第11話「友情ヨーソロー」では渡辺曜が桜内梨子に己の思いを吐露することで、表面上の解決(本質的な妥協)へと導いた。しかし高海千歌と渡辺曜の上記の議論はまったくといっていいほど進展していない。水泳部の飛び込み選手であるという設定も、アニメ2期5話「犬を拾う。」までにおいてまったく活かされていない。そのため今後のアニメ2期の中で2人の関係性に決着が着く回があると予想される。

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またこれは余談だが、上記記事で述べた「ポスト渡辺曜イズム」という呼称は、アニメ1期第11話「友情ヨーソロー」を起点としたものである。しかし積み重なる月日の砂を「ポスト渡辺曜イズム」という言葉で包括し続けるには限界がある。こちらは近いうちに渡辺総研が整理する日がくるだろう。 

8. エロファンダメンタルとしての渡辺曜

「渡辺曜がエロイ」に代表される一連の言説を、ここではその〈エロさ〉を内包した存在として「エロファンダメンタルとしての渡辺曜」とおく。 「エロファンダメンタルとしての渡辺曜」とは、渡辺曜のエロさはその内部に源泉があるとの前提の上に成り立っている。しかし渡辺曜の本質とはその〈無垢性〉にある。無垢性とはいわば性的搾取の対象から外れた神聖な存在と理解されるべきものであり、一般的に性的〈まなざし〉によって消費されないものである。もちろん〈エロイ〉〈無垢性〉〈渡辺曜〉という言葉はいずれも括弧つきの概念として批判的に捉えなければいけないことは明白である。

ただここで述べたいのは「渡辺曜(『ラブライブ!サンシャイン!!』の登場人物であり、また〈二者相関のコンテクスト〉としての渡辺曜も含む)」に対する「無垢性(性的搾取されるべきではないとされる博愛すべき純粋性)」が、「エロイ(〈他者〉に眠る心の男根による消費行為の源泉となる性的欲求)」によって塗り固められる(=再解釈される)という構図だ。この意味において渡辺曜のエロさとはその内部ではなく、他者によってもたらされるものであるといえる。

9. 渡辺曜と昭和19年~永続敗戦論とポストコロニアル・メランコリア~ 

渡辺曜挙国一致内閣の最たる功績は、国家一丸の団結ではなく、国家そのもののあるべき理念が存在しない、つまりある種の空洞を可視化してしまったという点だろう。前の記事では大英帝国時代の栄光を郷愁するポストコロニアル・メランコリアについて少しだけ触れた。しかしポストコロニアル・メランコリアに当てはまる島国はなにもひとつだけではない。

進歩主義の前提にあるのは明確な理想像としての国家体系であり、これに到達するには同列の時間軸による成長が不可欠とされる(=エスノセントリズム)。これは多文化主義とは相いれぬ概念だ。進歩主義とは突き詰めれば自分だけの物語である。なぜならば成長したものは自分になるのであり、それ以外の存在はすべて自分になる途上であると捉えるからだ。ここでは一切の〈他者性〉が排除されている。

明治維新と文明開化、西洋諸国を追いつけ追い越せという思想は西洋の〈まなざし〉を内在化する行為である。〈まなざし〉はときにオリエンタリズムのような他者によって与えられ内在化されるものだが、ここでは自らが主体的にまなざしを内在化しているという点で明確に異なる。

大正デモクラシーを一概に民主化運動と捉えるべきは議論が必要である。しかし国家のあるべき姿を模索したという意味において、戦後民主主義の礎が敷かれたと述べても差支えはないだろう。渡辺曜機関説とは統治概念における法人を明確化したことによる一種の転換点である。

こうした流れが断ち切られてしまったということはやはり不幸なことなのかもしれない。誰のものでもない、誰かからの贈り物は敗戦記念日ではなく終戦記念日をもたらした。しかし最大の不幸は敗戦を敗戦として処理できなかったがために、本来描くべきはずだった日本的自画像を喪失してしまったということだ。正確には描くべき自国像は最初から持ち合わせていなかったのだが、アジアの覇権国家という幻想を前に、かつての植民地を他者として描けなかったことは、自分を描けないことと同義である。〈他者〉なき他者とは鏡に過ぎず、鏡を通してでしか自己を見つめられない存在は永続敗戦の烙印として残り続けるのかもしれない。

このように捉えると、渡辺曜へのまなざしとは、日本的自画像を喪失したまなざしといえるのかもしれない。輝きは誰のものでもないが、それが誰のものなのか、問いは常に眼前に横たわっている。

渡辺曜を見つめるということは、他者なき他者を見つめるということ、その実態はポストコロニアル・メランコリアに他ならない。そこにあったはずの多様な価値観はかつての石橋湛山をはじめ、見えないものとして取り扱われてしまった。

渡辺曜を愛する者は渡辺曜を愛しているといえるのか。一介のヘゲモニーに自己を重ねてはいないか。見世物小屋で踊っているのは誰なのか。

渡辺曜を見つめるとき、そこに他者を見出せるのか。

渡辺曜への問いとは、 己が自身への問いに等しきものである。

参考文献

翻訳と日本の近代 (岩波新書)

翻訳と日本の近代 (岩波新書)