渡辺曜研究委員会

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渡辺総研コラム⑫:「渡辺曜と死政治~女性声優を打倒せよ~」

女性声優についての渡辺総研コラムです。

これまでの渡辺総研コラム

これまで渡辺総研が書いてきた渡辺総研コラムシリーズ記事です。

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1. 斉藤朱夏、うちっちーは彼氏なのか?

ゴールドディスクのDVD副音声によると、斉藤朱夏の彼氏はうちっちーであるとのことだ。念のため書き起こし文を併記しておく。

小林愛香「えっ?うちっちーって僕なの?(筆者注:うちっちー人形の発する音声の一人称に対しての発言)」

斉藤朱夏「え、あたし男って思ってるよ勝手に」

小林愛香「あ、そうなんだ」

斉藤朱夏「だってあたしの彼氏だもん

小林愛香「…そうなんだ」

ラブライブ!サンシャイン!! Aqours CLUB CD SET 2018 GOLD EDITION』《Aqoursクラブ活動 LIVE&FAN MEETING「3. December, 2017 in 沼津 オーディオコメンタリー:斉藤朱夏、小林愛香」》より抜粋

斉藤朱夏氏がなぜうちっちーを彼氏と呼称したのか、その真意は定かではない。

しかしこの発言によって、少なくとも次のような効果が期待できる。

1. 関係強化(対うちっちー

2. 魔除け(対オタク)

関係強化はうちっちーへの愛情表現ないしはその強調表現とみなすことができる。

ただしここで取り上げたいのは魔除けとしての効果だ。

一般的に「オタクは女性声優に処女性を求める」とする言説があるが、これを正しいと仮定すると、女性声優に彼氏の存在が発覚することは上記言説と逆行する行為である。

しかしながら、斉藤朱夏はうちっちーを彼氏と認定することで、オタクの反発を最小限に抑えている。うちっちーはそもそも人外かつ性別不詳あるいは着ぐるみないしは渡辺曜その人でもあるからだ。

つまり斉藤朱夏は彼氏という言葉でオタクを牽制しつつも、その処女性の担保を否定しない。護身とオタクマーケット層への訴求の両立を実現する、これこそまさに『声優ポリティクス』の好事例といえよう。

 

声優ポリティクスとは、声優がオタク市場において自己の利益の最大化を図るために、オタク需要への迎合を試みる、一種の権力闘争のことである。

たとえば「学生時代は(オタク受けがよいとされる)人見知りでぼっちでありながら、軽音部でヴォーカルを務めていた」といった相反する事象の整合性を保とうとしたり、「(男性とのツーショット写真がNGとされるオタクに配慮し)あくまで弟との仲良し写真を公開する」といった事例がこれにあたる。

2. 女性声優の妥当性

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先の章では概念的に多層構造を持つうちっちーと対比することで、魔除け効果を演出した斉藤朱夏の事例を紹介した。

しかしながら、実は女性声優とはうちっちーに負けず劣らず曖昧模糊とした概念である。

そもそも声優とは声に特化した役者であるが、各時代背景やアニメ史の移り変わりによってその内実も変遷してきた。一方で近年の声優は深夜アニメ本数や声優志願者数の増加に伴い、演技的技巧よりも若さや容姿の端麗さが求められることも多いとされている。

女性声優という言葉の射程には、第一線で活躍し続けるプロ声優の存在と、アフレコの経験があるといった程度の、限りなく素人の存在が含まれている。

その意味において声優という肩書は非常に手軽かつ、その内実を推しはかることが難しい概念ではある。

経験の浅い新人が役者ではなくアイドルでもなく、歌手ではなくアーティストでもなく、『声優』として売り込むのはそのあたりの事情もあるのかもしれない。第4次声優ブームや各事務所の思惑なども考えられる。

 一方で、視聴者の目線に立てば、アイドルではなく女性声優を応援するということは心理的負担を軽減するという効果が見込まれる。

「アイドルとは結婚できないが声優とは結婚できる」とする非論理的な言説ホルダーが存在するように、女性声優とはより身近な職業/憧れの対象となりつつある。

一方で物語コンテンツ内のキャラクターに声をあてるはずの女性声優は、いまや女性声優というキャラクターを演じ続けなければいけなくなった(=女性声優のコンテンツ化*1)。

3. 渡辺曜とネクロポリティクス

かつて子供に買ってあげたおもちゃを、その子供が無くしてしまったとする。

子供はその喪失を嘆き、泣きわめくので、親は新しい同じ型のおもちゃを買い与えたとする。

子供は新たに買ってもらったおもちゃを前にこう告げる。「このおもちゃじゃない。あのおもちゃがほしいの」

しかるにこれが同一性と反復性である。

親から見れば以前買い与えたおもちゃも、新たに買ったおもちゃも同じ型であるのだから、両者は同一である。

一方で子供からすれば「あのとき、あの場所で買ってもらい、喜びの思い出とともに月日を過ごしたおもちゃ」は、あのおもちゃのほかにはなく、代替のきかないものである。これはあのおもちゃが唯一無二であるという意味において特異性を見出している。

渡辺曜もまた、Aqoursのかけがえのないメンバ―という意味においてはただ1人の存在である。

一方で、たとえばとあるアニメーターが描いた渡辺曜と、同人作家が描いた渡辺曜のイラストがあったとして、両者はともに渡辺曜であるが、厳密には絵のタッチが違うなど特異性という意味においては同一ではない。

ではなぜ我々はこれを渡辺曜と呼べるかというと、我々がそれぞれのイラストを見るごとに、『渡辺曜』を想起することができるからである。だがこれはある種の暴力性を孕む。異なるイラスト、あるいは連続する事象から渡辺曜を見出すことは反復性の中から同一性を志向することと同義である。

その意味において、渡辺曜はそのイラストそのものではなく、そのイラストから想起されるシニフィエあるいはそれを担保するものこそ渡辺曜である。

4. 言語行為論と好意遂行的オタク

女性声優にガチ恋するオタクのことを、ここでは「好意遂行的オタク」と定義する。

好意遂行的オタクがなぜアイドルではなく女性声優に恋をするのか、そのメカニズムは未だ解明されていない。

なお仮説としては以下のようなものがある。

  1. アイドルの応援という世間的イメージの悪さ(要検証)と比較すると、相対的に声優を応援しやすい
  2. アイドルを志すような自分カワイイ!の女よりも、声優を志すような奥手な女の方が親近感が湧きやすい(偏見を含む)
  3. TVアニメやラジオなど、声優を知るチャネルが多い

なお、これらはあくまでも仮説なので実態は定かではない。

また渡辺総研としては、好意遂行的オタクは「声優という職業への無知から、女性声優へマウントがとれると思いこむ心理的優位性のもとに好意を抱く」可能性が高いと考える。

上記仮説は好意遂行的オタクが持ちうる認識として挙げたものであるので、事実とは異なる点に留意されたし。

5. 擬制同調と檻の外の囚人

【TGS2018】ラブライブ!シリーズ発表会の動画を参照すると、Aqours(正確にはCYaRon!)がキャラパネルを用いずに挨拶するのに対して、虹ヶ先メンバーはキャラパネルを用いた挨拶を行っている。

キャラクターとのシンクロ性を重視する『ラブライブ!』コンテンツならではの光景かもしれないが、穿った見方をすれば、女性声優個人の付加価値をつけるまでは、キャラクターとの抱き合わせ商法を行っているとも取れる。

『μ's』から始まったキャラクターやライブ映像との同調性が『ラブライブ!』の根幹をなす概念だとすれば、声優が前景化したシンクロ性は、評価はさておき区別して表記すべきかもしれない。渡辺総研はこれを『擬制同調』と呼ぶ。

擬制同調はキャラクターと声優との両輪だけではなく、ラブライブ!/女性声優というコンテンツの重複領域である。

TVアニメから急激な人気を獲得した『ラブライブ!』『ラブライブ!サンシャイン!!』とは対照的に、初のデビューアルバム+ライブイベントを行う虹ヶ先スクールアイドル同好会がどのような道をたどるのか、引き続きその動向を注視していく必要がある。

6. ポスト・フォーディズムとパトリオティズム

ポスト・フォーディズムであるところの現代において、人々の命は「かけがえのある生」である。これは女性声優にも当てはまる。

コンテンツ化し、限られた椅子をめぐって熾烈なオーディション競争を繰り広げる女性声優たち。フレッシュな若手が次々と台頭する中、需要がなくなれば切り捨てられるそれは「使い捨て可能な生」である。

これらの使い捨て可能な生は、個性などの独自性を求められる一方で、ビジュアルがよい/歌・ダンスができる等一定の基準を満たす必要がある。結果として紋切り型でありながら型破りでもあることを求められるというダブルバインドに陥る。

これが女性声優の反復性である。

時間的フレキシビリティ・空間的モビリティが制約されているのが女性声優だとすれば、人々は誰もが女性声優である(=社会の女性声優化)。

7. 声優ポリティクス~女性声優を打倒せよ~

女性声優とは「何者とも知れない誰か」になり果てた。その意味において女性声優とはこれすなわち欺瞞である。

通常、檻は中に囚人を閉じ込める。従って、内側に檻があるのならば、自分は檻の中にいるとは思うまい。すなわち誰もが女性声優になりえるのである。

声優ポリティクスは、女性声優というキャラクター性と個人の独自性を巡る闘争であり、女性声優が自分を取り戻すための試みでもある(=女性声優の脱政治化)。

非回帰的セカンダリー・バージニティを巡る議論など、女性声優の問題は尽きない。引き続き女性声優に関する諸問題は検証していく。

 

P.S. 夏休みありがとうございました。【渡辺総研】

 

 【参考文献

*1:「女性声優のコンテンツ化」とは、女性声優の握手会、ソロシングルCD発売・お渡し会、写真集発売など、いわゆるアイドル売りに近しい付加価値の供与である。これが既存のアイドルと同様の構造をなしているのか、はたまた女性声優特有の側面が含まれているのか、検証が必要である。